中出 阪蔵氏 紹介

 阪蔵は明治39年(1906)4月1日、射和郡下蛸路(現在の松阪市下蛸路町)に生まれました。小学校を卒業後、すぐに松阪の材木問屋に奉公に出されましたが、半年位した大正8年(1919)念願の上京を果たし、ヴァイオリン製作家の宮本金八に弟子入り、以来宮本金八の下でヴァイオリンやマンドリン、スチールギター、更にはギタローネといった特殊楽器を製作していました。転機となったのは昭和4年(1929)アンドレス・セゴビアの初来日の際、特別にセゴビア使用のギターのコピーを許されたことで(実際に採寸したのは宮本金八)、これをきっかけに宮本金八の指示によりギター製作を開始することになりました。


 昭和8年(1933)同じ弟子であった泉本一明氏から話を持ちかけられ二人で宮本氏より独立、新宿の角筈へ店を出しました。当時はまだギターの注文はほとんど無く、ヴァイオリンの注文で食いつないでいたような状態でした。


 その後昭和17年(1942)肋膜炎を患い、転地療養と疎開も兼ねて妻の実家のある花岡町に戻って来ました。昭和19年(1944)には下蛸路の実家近くに家を建てて移り住みました。その間もギター製作は継続、この頃にはヴァイオリンを離れギター製作に集中していたようです。この時期、弟の六太郎が製作を手伝うようになり、また大工職人であった留吉も同様に阪蔵を手伝うようになりました。六太郎は阪蔵が東京へ戻った後、あとを追うように上京、自分でも石神井に工房を構え独立、留吉も松阪の地で独自にギター製作を開始、昭和50年代前半まで製作していました。


 松阪での阪蔵は本気で百姓をするつもりで田畑も借り米や野菜も作っていました。しかし次男の敏彦氏の「これからの時代ギター職人である方が良い」という強い説得と、小原安正氏らに請われたこともあって昭和25年(1950)東京に戻り、中野の城山町に移ってギター製作を続けました。丁度その頃「ギターブーム」が興り、昭和30年代に入ってからは、阪蔵氏の元にもヴァイオリンの注文以上にギターの注文が舞い込むようになりました。一時期は楽器さえ作れば作るほど売れるといった時期もあり、最盛期には月産30本程製作、30年代の10年間で3,000~4,000本を出荷していたと思われます。


 ギター製作家としてその名が知られるにつれ、中出阪蔵の門をたたく者も増え、最盛期には15人もの弟子を抱えていたこともありました。中出門下生は30人を超え、黒澤常三郎・田崎守男・中村 篤・中山 昇・今井博水らが独立、稲葉征司・井田英夫ら現在も活躍する製作家がいます。また三人の子供(輝明、敏彦、幸雄)もギター製作家として独立していきました。


  歴代のギタリストとも関係が深く、製作初期からより良いギターを目指し共に試行錯誤を繰り返していました。製作にあたってはハウザー・ラミレスといった海外の銘器を研究・分析し、自らの製作に活かしていました。1969年当時の広告にもブーシェ、トーレス、フレタなどのコピーモデルを提示しています。ただどれだけ完璧にコピーしても、鳴りが良いとか音が通るとかの違いはあるものの出来上がったギターはやはり阪蔵氏の音色「中出トーン」でした。


 昭和54年(1979)千葉県君津市に移り住み、昭和55年(1980)最後の弟子の年季が明けてからは弟子を取ることもなく、次女光子の婿である志村二郎の手伝いをしながらのんびりとギター製作を続け、昭和56年(1981)には志村二郎が中出阪蔵Ⅱ世を襲名。その後所沢へ移ってからも子供たちの協力を得ながら、平成5年(1993)入院される直前までギターを作り続けました。


 生涯ギター職人であり続けた阪蔵氏は、同年87歳で亡くなるまでに数多くのギターを世に送り出しました。それらはギター製作技術の向上のみならず、楽器を手にしたギタリストも育て上げ、日本のギター界に多大な影響を与えました。